1996年6月3日月曜日

日本型経済システムの源流に戻って考える

現代日本の経済システムの是非が、これほどまでに問い直されたことは、いままでになかったように思う。日本人は自信を失い、将来に確信をもてず、考え迷っているように見える。

先が見えない不透明な時代であればこそ、まずその原点に帰って、おのれのルーツを確かめてみよう。行き詰まりを見せているような、この日本型と言われている経済システムの、そもそもの起源は何処にあったのか。

意外なことに、現代日本の経済システムの起源はどうも「満州国」にあったらしい。元はと言えば、かの関東軍主任参謀の石原莞爾である。彼は自分の総力戦体制構想の実現のためには産業の育成が喫緊の課題と考え、当時めざましい経済躍進を続けていたソ連システムに倣って、満鉄の調査部に計画経済システムを立案させたのであった(小林英夫『「日本株式会社」を創った男』)。こうして立案された生産力拡充計画は、やがて商工省の辣腕官僚、岸信介によって満州国で現実のものとなる。さらに岸は、そのシステムを日本本土にまで移植する。

それまでの明治大正期の日本の経済システムは、どちらかといえば現在のアングロサクソン型に近い自由主義、市場経済システムであった(岡崎哲二『現代日本経済システムの源流』)。戦争目的のために強引になされた一種の社会主義的な改革は、敗戦直後の混乱のなかで、農地解放と財閥解体というさらにドラスティックな措置で総仕上げがなされることになる。こうして戦後の日本型経済システムの基本的な性格が確立されていくのである。

このあたりの経緯を調べていくと興味は尽きないが、一国の経済システムのラディカルな変更とは、並大抵のことではないことがよくわかる。既得権益の抵抗はきわめて強いのである。戦争という非常事態と独裁的な軍部の強権ではじめて可能になったわけだが、それでも当時の商工次官であった岸信介は当時の商工大臣小林一三から「アカ」呼ばわりされて一時は更迭されたほどであった。

経済システムとは無数の多くの制度の歴史的な累積であり、一つの制度は必ず他の制度を前提として成り立っている(制度補完性と呼ばれる)。よって部分的にひとつの制度に手を加えてもシステム全体には、あたかも怪我をした人間の体のように元の状態に戻そうとする強い復元力が働くのである(システム慣性という)。

日本型システムの改革が必要なことは論を待たない。しかし、このような制度間どうしの補完性を考慮に入れる場合、経済システムの改革は「ビッグ・バン」ではなく、時間をかけて徐々にシステムを変形させて行くやり方しかないように思う。特定の方向に常に一定の力を継続的に加えることで、システムを構成する無数の制度をそれぞれに少しずつ変形させてゆくことができる。人間の体でいえば歯列矯正のやり方である。

日本は米国に比べ大きく立ち遅れてしまった、そんな悠長なことでは間に合わないとの意見もある。しかし、立ち遅れのキャッチアップなら日本の最も得意とするところではなかったのか。いまの問題は、システムの是非というよりは、システムの目標設定ができず、そのため産業の潜在力が十分に発揮できないことにあるように思う。大きなビジョンの提示が、政治のリーダーシップが望まれている。

(橋本 尚幸)